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循環する親切

今、親切って存在する?

ちょっとした親切って、完全なる「余計なお世話」になるような気がして、びびってます。
親切をするのが恐ろしい・・・。

近所にある洋服屋では「接客しないで下さい」っていうカードがあるそうです。

その店の洋服や商品について一番よく知っているのは、店員さんなんですが、そういう案内は入らないから、お客である私が好きなものを好きなように見るんだから、ほっといて下さい、という意思表示なわけです。

店員さんにしてみたら、お店の商品を紹介して売るためにお店を開いているわけで、そして、そこの店員さんになったのは、その店の商品が好きであるとか、こんな商品を皆さんにも使ってほしいとか・・・そんな見えざる思いもあるわけです。

しかし、そういうのは要らない―と言われているわけです。

今風なスタイルだなあ,と思いました。

今、一番スタイリッシュで、一番美徳と思われるのは、お互い干渉しないこと。

誰にも何にも言われたくない、言ってみればお互い知らん顔をしながら、通り過ぎられるお互いであること、それが一番いいつきあいであり、すばらしい住環境である!

というところかもしれませんね。

でも、一方ではとっても孤独感を感じていて、友情を求めて、スマホ疲眼を引き起こすほどにラインに熱中するのですね。

皮肉なことです。

きっと、これは現代の風潮であって、ひとりがそれをして良いとなると、別に特別な根拠はなくっても、風のように辺り一体に吹きめぐって、そういう雰囲気をつくり上げてしまう。

一度出来上がった雰囲気には、誰もなかなか対抗は出来ませんね。

だから、「親切にしたい気持ちはあるけれど、親切にするのがこわい」と言う人は私だけではないかもしれません。

でも、教会は小さな親切が横行しています

信仰を持つなんて言うのは、洋服屋さんで洋服を買うよりももっと、もっと個人的なことで、立ち入られたくないことでしょう。

ですから、日本人の宗教事情といえば、人の数と同じほどあると言っていいと思います。

私はヨガが好き、私はこのスピリッチャリズム・・・、というように。

無理矢理、キリスト教会という宗教ショップへの客引きはしていませんが、教会っていうところは、小さな親切が横行していますよ。その中に入ると、きっと奇妙に思われることでしょう。

堂々と、小さな親切が行き交っています。

そして、自然にその親切を受け取って循環にして、おせっかいだ!とか、余計なお世話だ、俺に干渉するな!と怒る人はあんまりいません。

教会が建てられた2000年近く前から受け継がれてきた特徴なんですね。

先日、こんなこともありました。

半年前に開店した食堂の名前を募集したんです。(ええ、未だ潰れずに、毎週、地道な営業を続けています。)

こども食堂って言うけど、大人も食べてるし、200円食堂っていうのは現実過ぎて夢がないし・・・ってことで、愛称を教会員の皆さんから募集したんです。

ただでやるって言うのもつまらんなぁ・・・ということで、食券3回分の懸賞ということで、募りました。

このような広告を出した時には、そんな変なことするの?って感じでみんな笑っていましたが、結構、たくさんの応募があったんです。熱心な利用者、そうでない人、それでも、この働きに共感を持っている人、そんなでもないけどとりあえず・・・いろんな立場の人が親身になって、食堂の愛称を考えてくださいました。

世の中の懸賞でしたら、懸賞品に興味のある人しか応募がないのが普通なんですが、そうでないところが教会だと思います。

審査の結果、この食堂の名付け親になったのは、あまり食堂を利用することは多くない方でした。この食堂の祝福を願って、みんなのいい居場所になったらいいな・・・という思いからでしょう、この愛称募集に応募してくださったわけです。

ちなみに、食堂は「和み亭」という名前に相成りました。「なごみて~」という気分の時にお立ち寄り下さい。きっと、なごめますよ。

懸賞の3回分の食事券はどうなったかと言うと、名付け親さんは「ありがとうございます」と受け取ってくださり、その日のうちにご自分も「和み亭」で親子丼と抹茶プリンを召し上がって、そして、残りの食券は、早速シェアされていました。

食堂をよく利用している人に手渡していました。すごく、自然に。
もらった方は当然、喜んでいました。

それを見ていて、私も普通に嬉しかったです。

本当にささいなことなんです。
でも、小さな親切が、風のように自然に循環するところって素敵だな、と思いました。

追記:アイキャッチ画像の「和み亭」チケットは、小学生が作ってくれました。「亭」の字が間違っていますね。かわいい!

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教会を造る人たち

前回書いた記事にコメントがあり、ちょっぴりうれしいです。「教会に生きる幸いを確認しました」なんて、嬉しいメッセージもありました。

本当に、そうなんです。教会に生きる幸い、ってあるんですよ。

日本においては、キリスト教というのは、まだまだ「異教」であり、「外国の宗教」でしょう。だから、教会に生きる幸いなんていうのは、あまり知られていないことだと思います。

たとえば、最近こんなことがありました。

つい最近まで教会学校に来ていた小学生の女の子が、お母さんに「うちはキリスト教じゃないから、もう上の学年になったら教会に行っちゃだめ」と言われ、4月からは、ぱったりと来なくなりました。

彼女とそのお友達は、毎週のように楽しく日曜日に教会に遊びに(?)来ていましたが、本当に、ぱったりと来なくなりました。淋しくもあり、残念でもありますが、実際にこのようなことはよくあります。

そんな時、思うのは、子どもたちが、成長して大人になった時、教会のどんな記憶が残るのだろうか、ということです。いつまでも残るものは、なんなのか―

プロテスタント教会でもっとも重視されている、聖書の言葉、聖書の言葉の説き明かし=説教ですが、おそらく、きっと子どもの頭の中にはほとんど残らないだろうな・・・と思います。

教会で楽しく遊んだこととか、一緒にお昼ご飯を食べたこととか・・・楽しい思い出がひとつでも残ってくれたらいいなあ、と思います。もちろん、お祈りの言葉や聖書の言葉を覚えていてくれたらいいな、と思いますが。

自分のことを考えてみてもそうですが、20代の頃、教会の礼拝で聴いた説教・・・正直、そんなに覚えていません。そりゃ、いくつかは覚えていますよ。また、それらが自分の人生において、決定的な意味をもった言葉になったということも否定はしません。

むしろ、自分の記憶に残っている大切なもうひとつの流れは、人です。教会に連なっている人々の姿です。

私が集っていた教会の礼拝には、毎週80人くらいの人がいつも集まっていましたが、しばらく通うようになると、良く声をかけてくれる人、親しくなる人、印象に残る人たちが出てきました。

教会学校の先生だったり、教会の役員さんだったり、その奥さんだったり、遠くから教会に通ってくる私に昼ごはんをご馳走してくれる気前のよい人だったり、礼拝で特別な日に讃美歌を歌う人だったり、もう間もなく結婚するという人だったり、病院に入院しながらも洗礼を受けたいといって病院で洗礼を受ける人など・・・

いろんな人に出会いました。こういう人たちは、言ってみれば、みんな信仰によって生きた人たちでした。

信仰によって、普通なら寝ていたい日曜日の朝早くから教会に来て,子どもたちに聖書のお話しをしたり、遊んだりし、

同じ信仰によって、人々に仕えて奉仕をして、

同じ信仰によって、遠くから来る私にご飯をご馳走し、

同じ信仰によって、神様に歌い、

同じ信仰によって、教会で結婚し、教会で洗礼を受け、息を引き取っていった人たちでした。

それを見ながら、信仰によって生きるというのはどういうことかを教えて頂きました。

平凡な表現ではありますが、どの人も私にとっては、とても素敵に見えました。言葉だけではなくて、その存在すべてが何かを語り、教えてくれるのです。

キリスト教会は、けっこうそれを大切にしている人たちが多いのではないかな、と思います。

ある時、ひとりの女性の方がこんなことを教えてくれました。その方のご主人は信仰をお持ちではないので、ひとりで教会の礼拝に来ておられる方でした。彼女が、自分が一番好きな聖書の言葉(自分が旨とする)のは、聖書のこの言葉だと教えてくれました。

 同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。

それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。

あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、

むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。

ペテロの手紙第一3章1―4節

服従するなんてことを大切にする人は、そう多くはないと思います。この方は、無言のふるまいと柔和で穏やかな精神性を大切にして生きたい、そう願っておられるのです。

職場や学校では、無言のふるまいでは、「自己主張がない」「アッピール性がない」ということで、損をするか、評価されることが少ないと思いますが、身近にいる人や友達になるなら、ぜったい、こういう人がよいと思います。

特に、男性の皆さん!嫁さんにするなら、こういう人がいいのではないでしょうか?

まあ、話しを元にもどして・・・教会を造っている人は、信仰をもつ、実に様々な人たちです。本当に色々なことを教えられるものです。

 

 

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教えてもらう幸い

実感:教えてもらうってありがたい

50の手習いなんて申しますが、最近、また、まったく新しいことを始めました。

右も左も、まったく分かりません。いくつになっても、分からないことというのはあるものだなあ・・・と思いましたが、さっぱり分かりません。

あまりに分からないので、ちょっと、知り合いの方に「家庭教師」になって頂きました。

そうしたら、わかること、分かること、理解ること・・・。

今までは自己流でやっていたので、着眼点も間違っていました。自分が気にしていたことは些細などうでもいいことで、他にきちんとしなければならない重要なことがあったり、手本とすべきものがちがっていたり・・・。

この年になってですが、教えてもらえることのありがたさ、きちんとした情報を共有することの大切さを改めて体験しました。

現在は情報過多な時代ですが、情報弱者なんて言葉もありまして、有益な情報をキャッチできない人たちは、生きていくうえで、不利になるということがいくらでもあります。

要するに、知らないと損をする、ということです。

これは皆さん知っていると思いますが、社会保険料は給料から天引きされて、年金を積み立てていきます。けれども、これは、一定の年齢に達したからといって、自動的に支給されるわけではありません。社会保険庁に請求しないと、年金は支払われないようになっています!なんで?と言いたいですが。

「知らないと損!」というコラムがあるくらいですよ(東洋経済オンライン)。読むと「へーっ!」というようなことばかりです。経済活動(お金のことを含み!)生きていく上で役立つ情報はたくさんあります。

人間はよい情報を共有することで生きる生き物!?

私たち人間は、生きていくために必要な情報というのを常に必要としています。

これは仮説ですが、人間は原始の頃から有益な情報を共有することによって生き延びてきた、というのです。

人類の歴史は飢餓との戦いの歴史でもありました。

定住して農耕文明が発達するまでは、自然に生えている物を収獲することによって生きていました。それがなくなってしまうと、たちまち飢餓に見舞われるわけです。そんな時、旅人が通りかかり、「あっちの方にはまだ木の実がなっている。肥沃な土地がある」と教えてくれる人があったとします。

その情報を頼りに、人は移動し、食べ物にありつき生き延びることが出来た・・というのです。

この仮説の前提は、人間はよいものを共有することで生きてきた、という興味深い趣旨です。

ふむふむ、なるほどなあ、と思います。また、そう信じたいですね。

旅人はその部落の人たちを全滅させようとして、嘘っぱちの情報を携えてきた悪人である、なんてことをいちいち疑って生きていくのは大変しんどいことです。けれども、現実には、このインターネット上に流れている情報も、いつだって、本当であるか、嘘であるか、吟味しなければならないです。

教えてもらう幸いというのは、確かに存在します

教えてもらうことで、確かに私たちの人生は豊かにされます。

私が教会に通うのも、いろいろと教えてもらえることがあるからです。なんと言っても教会で教えられるのは、罪と死についての克服でしたが、死に関することだけではありません。教会では、生きることも教えられます。

教会に集うようになって、もう四半世紀が過ぎていますが、本当に色々と教えられます。今は、一応、教師と言う立場ですので、教える立場にあるわけですが、それでも、周りの人から教えていただくことは多いです。

教会のひとつの特徴は、全世代の人がいる、と言うことです。生まれたばかりの赤ちゃんや小学生、青年、お母さん、お父さん、会社経営者の人、雇われる人、自営業の人、第一次産業従事者の人・・・お年寄り、病院や施設で死を迎えようとしている人まで、実に様々な境遇の人たちが集います。

私が今いる教会はとても小さい人数の集まりですが、それでも確かに全世代の人間がそろっていますね。

様々な人が、ひとつの共同体を造るというのが教会のひとつの特長でしょう。考えてみるとそういう共同体はなかなかないです。社会というのは、どうしても輪切りにされるところです。

同じ学力の人、同程度の能力の人、会社の部署に行けば、同じ仕事をする仲間・・・という具合に、何かしら共通点があるものです。しかし!教会と言うところは、実に変わっております。ただ一つの共通点は、神に召された者の集まり、イエスを救い主と仰ぐ者の集まり、ということです。あまりに大きなくくりですから、さまざまな人がおられます。

そのような教会に集う様々な人たちを見つめながら、「結婚ってこういうものなのかなあ」とか「ああ、私も50歳になったら、こんなおばさんになるんだなあ、」とか「こういう人になりたいなあ」とか、「病気で闘病生活をするって、本当にたいへんだなあ」とか、自然に先輩たちから、教えてもらってきました。人生の見通しとでも言うものが示され、教えてもらってきました。

今は、もういい年になってきましたので、「私に倣う者となりなさい!(コリント人への手紙第一4章16節)」と言えるような人間像が出来上がっていなければいけない年になってしまいましたが・・・。

教えてもらわなければ・・・と思っていることは何でしょうか?それが見つかるとよいですね!