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世にあって星のように輝き

先日、山にキャンプに行きました。
中学生とか高校生とか、若い人たちと一緒に。
中年のおばさんにはハードなプログラムでしたが、まだまだ、いけました!
むっちゃ、楽しかったです。

キャンプ一日目の晩に、ナイト・ウォーキングっていう時間がありましてね。
夜の散歩ですよ。
都会から出かけて行って、最初の晩、暗くなってからいきなり山の中を歩く・・・
ちょっと、どきどきしました。

「これって、昔は、肝だめしだったんちゃいますの?」って常連キャンパーに訪ねましたら、
「そうです! 昔は、懐中電灯も何にも持たずに歩いたんです」
いや~。昔はむちゃくちゃなことをして楽しんでましたね。
今やったら、怪我でもしたら、苦情殺到ですな。

さて、そのナイト・ウォーキングの後、目的地でしたのは、星空ウォッチングです。
ブルーシートをばーっと広げまして、みんなで仰向けになって星空を眺めました。
三田の山の中だったんですが、市街地の明かりが空に映って、空がぼんやりと明るく、意外と明るかったのに驚きました。
人の手は、いたるところに伸びていまして、手付かずの自然などもうどこにも残ってはいないようです。
まあ、それでも、ここ甲子園よりは全然まし。キレイな星がたくさん見えました。

さあ、ここで問題です!
ごろりと仰向けになって、みんなが一斉に始めたのは何だったでしょうか?

1.お祈り
2.蚊との格闘
3.流れ星さがし

答えは、3番です。
流れ星探し。
こんな言い伝えを聞いたことはありませんか?
「流れ星が消える前に、願い事を3回唱えることが出来たら、その願いは叶う」って。
地方によって違いがあるかもしれませんが、結構、この言い伝えは広くかつ浸透しているようですよ。
まあ、流れ星は「あっ!」と言う間に消えますので、絶対に願い事を3回も口にする暇は無いはずですが、それでも、直ぐに流れ星探しが始まりましたよ。

それだけ、みんな、それぞれに願い事があり、それが叶うなら…と心ひそかに祈り願っているのね、と思いました。
そうそう、若いんだから、夢も希望もありますわ。
「星に願いを」⇒Dream come true ディズニーのキャッチフレーズですやん。

わたし、一応牧師なんですけど。
じゃあ、クイズ。わたしが、ごろりと空を仰いで始めたことは何だったでしょうか?

1.黙想
2.蚊との格闘
3.人工衛星探し おい!

答えは1番です。
黙想って何ですか?って聞かれそうですが。説明が難しいですね。
ひと言で言うと、聖書の言葉を思い出して、神様と人間のことを考えていた、ということでしょうか。

思い出した聖書の言葉は、

何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。
そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、
命の言葉をしっかり保つでしょう。(フィリピの信徒への手紙2章14-16節)

これは、ディズニーの言い伝えとはちょっとちがって、昔、フィリピ教会の人たちが、「これは、神の言葉だ!」って真剣に聴いて、受け止めたそういう言葉です。
そして、2000年近く、そのまま語り伝えられてきた言葉です。

教会に集まって救われたひとりひとりは、この世で輝く星のようだ、と言われています。
You are stars!
ってのは、いい響きですね。
教会が、信徒ひとりひとりが、暗やみに輝く星のようだ!というのは、素敵なイメージではないでしょうか。

でも、教会は、太陽じゃないんですね。
また、夜の中で一番明るい光である、月でもないんです。
細々とではあるけれども、暗やみの中で、さやかにきらめく星、にたとえられています。
このあたりも、意味深長だと思いました。

教会は、暗やみに輝く光で、本当にわずかな光ではあるけれども、
方向を示し、時を示し、暗闇を美しく彩り、望みを与える存在なのね・・・

空を眺めて、ひとりそのようなことを考えておりました。

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9月1日に学校へ行きたくない君へ

夏休みもそろそろ終わりですね。
「宿題、終わった?」が挨拶代わりの、今日この頃。
2学期のスタートを目の前にして、心が重い人がきっといるはず。
そんな、君のことを考えながら、書いています。

学校に行くことを考えただけで、気持ちが悪くなる・・・なんて人もいるかもしれない。
そう、1学期に失敗して恥をかいたとか、嫌なことがあったとか、友だちから無視されていたとか、気まずかったとか、または、いじめられたとか・・・。
そんな場合には、絶対に、気が重いにちがいない。

教会学校に来ている小学生や中学生に、「学校、楽しい?」って尋ねるんだけど、
「楽しい!」って言う人は、うーん、あんまりいないなぁ。
7割くらいの人が、「やだー」とか「きらーい」とか「いきたくなーい」っていいます。
親でもない、先生でもない、ただの近所のおばちゃんの軽い質問に対する答えだから、たぶん、素直な答えだと思っています。
その理由は、様々だと思うし、そんなに深く考えてはいないと思うんだけれど、まあ、「毎日、夏休みの方がいい」というところかな。
それでも、やっぱり、学校に行けば、久しぶりに会える友達がいるし、新しく授業で教わる事が楽しいとおもうときもあるし・・・ということで、とりあえず、みんな学校へは行っているね。

でも、中には、どうしたって,学校に行くことに何の喜びも楽しみも見出せない、学校は自分にとって地獄のようなところだ、と思う人がいるでしょう。
親は「学校に行け」としか言わないし、自分としても「いかなくっちゃ・・・」と思う。するといよいよ苦しくなって、気持ちが悪くなってくる。
自分にとって、どうせ、学校=地獄なんだから、もういっそ死んでしまおう!
そこまで、思い詰めている人だって、本当にあると思う。
このブログへたどり着いたということは、そういうことなんだと思う。

そう、9月1日は、気が重い日なんだ。

昨日、ちょっとしたことで小学校に行って、先生と話しをする機会がありました。
小学校の先生も、ちょっと顔を曇らせて、「9月1日、(みんなが元気に登校してくれるか)心配なんです」そんなことを話していました。
小学校の先生たちも、そういう君のことを、心配しているんだよ。

9月1日に学校へ行きたくない、行くくらいだったら死んだ方がまし・・・
と思いつめているあなたに、私が伝えたいのは、「ぜったいに、死なないで!」と言うことです。
「死ぬという選択肢」を選ぶくらいなら、
「学校へ行かないという選択肢」を選んだらいい。
人生はまだまだ先があるんだ。これからが本番と言ってもいい。
人生には、色々な選択肢があるのです。

学校というのは、児童・生徒である人にとっては、ほぼ、すべてだと思いますが、年齢を重ねて社会に出てみると、学校というのは、ひとつの通過点のようなものだったことに気づきます。
学校は、すべてではない。
死ぬくらいなら「行かない」という選択肢を選んだらいいんだ。
そうすれば、まだまだ、続けられるのだから。
あなたはかけがえのない存在なんだ!

学校でいじめられて、耐えられなくなって、ついに飛び込んでしまった・・・という高校生がいました。本当に身近なところで起こったことで、言い表せないほどのショックでした。
今でも、ご両親や親戚のみんなが泣いています。「どうして、気づいてあげられなかったのか」と自責の念で苦しみ、悲しんでいます。
生きていてくれたら・・・

だから、今、同じような思いでいる苦しんでいるあなたに、メッセージを送らなくっちゃ・・・と思って書きました。
「ぜったいに、死なないで!」

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循環する親切

今、親切って存在する?

ちょっとした親切って、完全なる「余計なお世話」になるような気がして、びびってます。
親切をするのが恐ろしい・・・。

近所にある洋服屋では「接客しないで下さい」っていうカードがあるそうです。

その店の洋服や商品について一番よく知っているのは、店員さんなんですが、そういう案内は入らないから、お客である私が好きなものを好きなように見るんだから、ほっといて下さい、という意思表示なわけです。

店員さんにしてみたら、お店の商品を紹介して売るためにお店を開いているわけで、そして、そこの店員さんになったのは、その店の商品が好きであるとか、こんな商品を皆さんにも使ってほしいとか・・・そんな見えざる思いもあるわけです。

しかし、そういうのは要らない―と言われているわけです。

今風なスタイルだなあ,と思いました。

今、一番スタイリッシュで、一番美徳と思われるのは、お互い干渉しないこと。

誰にも何にも言われたくない、言ってみればお互い知らん顔をしながら、通り過ぎられるお互いであること、それが一番いいつきあいであり、すばらしい住環境である!

というところかもしれませんね。

でも、一方ではとっても孤独感を感じていて、友情を求めて、スマホ疲眼を引き起こすほどにラインに熱中するのですね。

皮肉なことです。

きっと、これは現代の風潮であって、ひとりがそれをして良いとなると、別に特別な根拠はなくっても、風のように辺り一体に吹きめぐって、そういう雰囲気をつくり上げてしまう。

一度出来上がった雰囲気には、誰もなかなか対抗は出来ませんね。

だから、「親切にしたい気持ちはあるけれど、親切にするのがこわい」と言う人は私だけではないかもしれません。

でも、教会は小さな親切が横行しています

信仰を持つなんて言うのは、洋服屋さんで洋服を買うよりももっと、もっと個人的なことで、立ち入られたくないことでしょう。

ですから、日本人の宗教事情といえば、人の数と同じほどあると言っていいと思います。

私はヨガが好き、私はこのスピリッチャリズム・・・、というように。

無理矢理、キリスト教会という宗教ショップへの客引きはしていませんが、教会っていうところは、小さな親切が横行していますよ。その中に入ると、きっと奇妙に思われることでしょう。

堂々と、小さな親切が行き交っています。

そして、自然にその親切を受け取って循環にして、おせっかいだ!とか、余計なお世話だ、俺に干渉するな!と怒る人はあんまりいません。

教会が建てられた2000年近く前から受け継がれてきた特徴なんですね。

先日、こんなこともありました。

半年前に開店した食堂の名前を募集したんです。(ええ、未だ潰れずに、毎週、地道な営業を続けています。)

こども食堂って言うけど、大人も食べてるし、200円食堂っていうのは現実過ぎて夢がないし・・・ってことで、愛称を教会員の皆さんから募集したんです。

ただでやるって言うのもつまらんなぁ・・・ということで、食券3回分の懸賞ということで、募りました。

このような広告を出した時には、そんな変なことするの?って感じでみんな笑っていましたが、結構、たくさんの応募があったんです。熱心な利用者、そうでない人、それでも、この働きに共感を持っている人、そんなでもないけどとりあえず・・・いろんな立場の人が親身になって、食堂の愛称を考えてくださいました。

世の中の懸賞でしたら、懸賞品に興味のある人しか応募がないのが普通なんですが、そうでないところが教会だと思います。

審査の結果、この食堂の名付け親になったのは、あまり食堂を利用することは多くない方でした。この食堂の祝福を願って、みんなのいい居場所になったらいいな・・・という思いからでしょう、この愛称募集に応募してくださったわけです。

ちなみに、食堂は「和み亭」という名前に相成りました。「なごみて~」という気分の時にお立ち寄り下さい。きっと、なごめますよ。

懸賞の3回分の食事券はどうなったかと言うと、名付け親さんは「ありがとうございます」と受け取ってくださり、その日のうちにご自分も「和み亭」で親子丼と抹茶プリンを召し上がって、そして、残りの食券は、早速シェアされていました。

食堂をよく利用している人に手渡していました。すごく、自然に。
もらった方は当然、喜んでいました。

それを見ていて、私も普通に嬉しかったです。

本当にささいなことなんです。
でも、小さな親切が、風のように自然に循環するところって素敵だな、と思いました。

追記:アイキャッチ画像の「和み亭」チケットは、小学生が作ってくれました。「亭」の字が間違っていますね。かわいい!

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人生、自分が望まないことをする時間はない!

山の日っていうのが出来たんですね。
夏休み中なので、あまりインパクトがない休日ですが、でも、ある人たちにとっては忘れられない日に違いありません。
御巣鷹山に日航機が墜落したというのが、山の日の原点にあるからです。
日航機墜落事件の記憶はだんだん薄れつつありますが、私にとっては別のからみで記憶に残る日となっています。
やはり、人の命とからんで。

私の祖父はこの日、危篤になって、その年の8月15日になくなりました。
「じいちゃんが危ないんだって!」という知らせが入って、父とは母、即刻病院に行きました。その直後、見ていたテレビ放送が中断されて突然テレビ番組がすべて変更になって、御巣鷹山に飛行機が墜落裂いたらしい、という知らせが入ってきました。
他人事とは思えぬ、大惨事でした。
時々刻々と伝えられる惨事の様子に恐怖を覚えました。

ですから、この山の日または旧盆が近づいて、御巣鷹山の飛行機事件のことが報道されるたびに、この時のこと、そして祖父のことを思い出すのです。

私の祖父は小学校の校長をしていました。けれども、今で言う早期退職をしました。
今ではリストラとか、いろいろな事情で早く退職をするという人もおられますが、当時ではとても珍しかったそうです。
なんで、早くに学校を辞めたかというと、絵を描きたかったからなんです。

祖父は「雪嶺」という名で絵を描いていました。
小学校の教科書では「世界一の豪雪地帯」と紹介されるところに住んでいましたので、「雪」の名を入れてもちっともおかしくはないのですが、この「雪」は、日本画家(水墨画家)の「雪舟」にちなんで付けたもののようです。

雪舟は、室町時代の人ですが、子どもの頃、寺の小僧をしておりました。
しかし、お経はちっとも覚えず、絵を描いて遊んでばかりいました。
それを見かねた僧侶は雪舟に、「今後、一切、絵を描いてはならぬ」ときつく言い渡しました。
けれども、雪舟は絵を描くことを止めることが出来ませんでした。
とうとう僧侶は、お仕置きとして、本道の柱に雪舟を縛り付けました。
雪舟は悲しくて、涙を落としましたが、思わずその涙を足の指につけて、ねずみの絵を描いてしまったというのです。
そして、このねずみの絵は素晴らしい出来栄えで、本物のネズミと見間違うほどのものでした。
それ以来、僧侶は雪舟が絵を描いても何もいわなくなったそうです。

この雪舟にあやかって、絵を描くことに集中するために、小学校の先生を辞めたらしい・・・のです。

祖父の描いた絵は今もたくさん残っていて、実家の床の間に飾ってあったりします。
そんな絵を眺めていると「人生は短いのだぞ、好きなことをして生きろ」と語りかけられているような気がするのです。
人生って、本当に短い時間ですね。それも、いつ終わるかわかりません。
乗っていた飛行機が突然墜落して・・・なんてことも考えられないことではありません。

好きなことだけして、遊んで暮らせる―などと甘ったれた考えを提唱しているわけではありません。
人に頼まれたことや、キライなことばかりして、そして、それを環境や人のせいにして、
自分が願ったことがひとつも出来なかったというのは、残念なことです。

10年後、「あんなことして失敗したなあ・・・」と思うより、
「あれをやっておけばよかったなあ」と思って悔いることの方が多いのではないか、と思います。
悔いのない日々を、私も!

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教会を造る人たち

前回書いた記事にコメントがあり、ちょっぴりうれしいです。「教会に生きる幸いを確認しました」なんて、嬉しいメッセージもありました。

本当に、そうなんです。教会に生きる幸い、ってあるんですよ。

日本においては、キリスト教というのは、まだまだ「異教」であり、「外国の宗教」でしょう。だから、教会に生きる幸いなんていうのは、あまり知られていないことだと思います。

たとえば、最近こんなことがありました。

つい最近まで教会学校に来ていた小学生の女の子が、お母さんに「うちはキリスト教じゃないから、もう上の学年になったら教会に行っちゃだめ」と言われ、4月からは、ぱったりと来なくなりました。

彼女とそのお友達は、毎週のように楽しく日曜日に教会に遊びに(?)来ていましたが、本当に、ぱったりと来なくなりました。淋しくもあり、残念でもありますが、実際にこのようなことはよくあります。

そんな時、思うのは、子どもたちが、成長して大人になった時、教会のどんな記憶が残るのだろうか、ということです。いつまでも残るものは、なんなのか―

プロテスタント教会でもっとも重視されている、聖書の言葉、聖書の言葉の説き明かし=説教ですが、おそらく、きっと子どもの頭の中にはほとんど残らないだろうな・・・と思います。

教会で楽しく遊んだこととか、一緒にお昼ご飯を食べたこととか・・・楽しい思い出がひとつでも残ってくれたらいいなあ、と思います。もちろん、お祈りの言葉や聖書の言葉を覚えていてくれたらいいな、と思いますが。

自分のことを考えてみてもそうですが、20代の頃、教会の礼拝で聴いた説教・・・正直、そんなに覚えていません。そりゃ、いくつかは覚えていますよ。また、それらが自分の人生において、決定的な意味をもった言葉になったということも否定はしません。

むしろ、自分の記憶に残っている大切なもうひとつの流れは、人です。教会に連なっている人々の姿です。

私が集っていた教会の礼拝には、毎週80人くらいの人がいつも集まっていましたが、しばらく通うようになると、良く声をかけてくれる人、親しくなる人、印象に残る人たちが出てきました。

教会学校の先生だったり、教会の役員さんだったり、その奥さんだったり、遠くから教会に通ってくる私に昼ごはんをご馳走してくれる気前のよい人だったり、礼拝で特別な日に讃美歌を歌う人だったり、もう間もなく結婚するという人だったり、病院に入院しながらも洗礼を受けたいといって病院で洗礼を受ける人など・・・

いろんな人に出会いました。こういう人たちは、言ってみれば、みんな信仰によって生きた人たちでした。

信仰によって、普通なら寝ていたい日曜日の朝早くから教会に来て,子どもたちに聖書のお話しをしたり、遊んだりし、

同じ信仰によって、人々に仕えて奉仕をして、

同じ信仰によって、遠くから来る私にご飯をご馳走し、

同じ信仰によって、神様に歌い、

同じ信仰によって、教会で結婚し、教会で洗礼を受け、息を引き取っていった人たちでした。

それを見ながら、信仰によって生きるというのはどういうことかを教えて頂きました。

平凡な表現ではありますが、どの人も私にとっては、とても素敵に見えました。言葉だけではなくて、その存在すべてが何かを語り、教えてくれるのです。

キリスト教会は、けっこうそれを大切にしている人たちが多いのではないかな、と思います。

ある時、ひとりの女性の方がこんなことを教えてくれました。その方のご主人は信仰をお持ちではないので、ひとりで教会の礼拝に来ておられる方でした。彼女が、自分が一番好きな聖書の言葉(自分が旨とする)のは、聖書のこの言葉だと教えてくれました。

 同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。

それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。

あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、

むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。

ペテロの手紙第一3章1―4節

服従するなんてことを大切にする人は、そう多くはないと思います。この方は、無言のふるまいと柔和で穏やかな精神性を大切にして生きたい、そう願っておられるのです。

職場や学校では、無言のふるまいでは、「自己主張がない」「アッピール性がない」ということで、損をするか、評価されることが少ないと思いますが、身近にいる人や友達になるなら、ぜったい、こういう人がよいと思います。

特に、男性の皆さん!嫁さんにするなら、こういう人がいいのではないでしょうか?

まあ、話しを元にもどして・・・教会を造っている人は、信仰をもつ、実に様々な人たちです。本当に色々なことを教えられるものです。

 

 

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教えてもらう幸い

実感:教えてもらうってありがたい

50の手習いなんて申しますが、最近、また、まったく新しいことを始めました。

右も左も、まったく分かりません。いくつになっても、分からないことというのはあるものだなあ・・・と思いましたが、さっぱり分かりません。

あまりに分からないので、ちょっと、知り合いの方に「家庭教師」になって頂きました。

そうしたら、わかること、分かること、理解ること・・・。

今までは自己流でやっていたので、着眼点も間違っていました。自分が気にしていたことは些細などうでもいいことで、他にきちんとしなければならない重要なことがあったり、手本とすべきものがちがっていたり・・・。

この年になってですが、教えてもらえることのありがたさ、きちんとした情報を共有することの大切さを改めて体験しました。

現在は情報過多な時代ですが、情報弱者なんて言葉もありまして、有益な情報をキャッチできない人たちは、生きていくうえで、不利になるということがいくらでもあります。

要するに、知らないと損をする、ということです。

これは皆さん知っていると思いますが、社会保険料は給料から天引きされて、年金を積み立てていきます。けれども、これは、一定の年齢に達したからといって、自動的に支給されるわけではありません。社会保険庁に請求しないと、年金は支払われないようになっています!なんで?と言いたいですが。

「知らないと損!」というコラムがあるくらいですよ(東洋経済オンライン)。読むと「へーっ!」というようなことばかりです。経済活動(お金のことを含み!)生きていく上で役立つ情報はたくさんあります。

人間はよい情報を共有することで生きる生き物!?

私たち人間は、生きていくために必要な情報というのを常に必要としています。

これは仮説ですが、人間は原始の頃から有益な情報を共有することによって生き延びてきた、というのです。

人類の歴史は飢餓との戦いの歴史でもありました。

定住して農耕文明が発達するまでは、自然に生えている物を収獲することによって生きていました。それがなくなってしまうと、たちまち飢餓に見舞われるわけです。そんな時、旅人が通りかかり、「あっちの方にはまだ木の実がなっている。肥沃な土地がある」と教えてくれる人があったとします。

その情報を頼りに、人は移動し、食べ物にありつき生き延びることが出来た・・というのです。

この仮説の前提は、人間はよいものを共有することで生きてきた、という興味深い趣旨です。

ふむふむ、なるほどなあ、と思います。また、そう信じたいですね。

旅人はその部落の人たちを全滅させようとして、嘘っぱちの情報を携えてきた悪人である、なんてことをいちいち疑って生きていくのは大変しんどいことです。けれども、現実には、このインターネット上に流れている情報も、いつだって、本当であるか、嘘であるか、吟味しなければならないです。

教えてもらう幸いというのは、確かに存在します

教えてもらうことで、確かに私たちの人生は豊かにされます。

私が教会に通うのも、いろいろと教えてもらえることがあるからです。なんと言っても教会で教えられるのは、罪と死についての克服でしたが、死に関することだけではありません。教会では、生きることも教えられます。

教会に集うようになって、もう四半世紀が過ぎていますが、本当に色々と教えられます。今は、一応、教師と言う立場ですので、教える立場にあるわけですが、それでも、周りの人から教えていただくことは多いです。

教会のひとつの特徴は、全世代の人がいる、と言うことです。生まれたばかりの赤ちゃんや小学生、青年、お母さん、お父さん、会社経営者の人、雇われる人、自営業の人、第一次産業従事者の人・・・お年寄り、病院や施設で死を迎えようとしている人まで、実に様々な境遇の人たちが集います。

私が今いる教会はとても小さい人数の集まりですが、それでも確かに全世代の人間がそろっていますね。

様々な人が、ひとつの共同体を造るというのが教会のひとつの特長でしょう。考えてみるとそういう共同体はなかなかないです。社会というのは、どうしても輪切りにされるところです。

同じ学力の人、同程度の能力の人、会社の部署に行けば、同じ仕事をする仲間・・・という具合に、何かしら共通点があるものです。しかし!教会と言うところは、実に変わっております。ただ一つの共通点は、神に召された者の集まり、イエスを救い主と仰ぐ者の集まり、ということです。あまりに大きなくくりですから、さまざまな人がおられます。

そのような教会に集う様々な人たちを見つめながら、「結婚ってこういうものなのかなあ」とか「ああ、私も50歳になったら、こんなおばさんになるんだなあ、」とか「こういう人になりたいなあ」とか、「病気で闘病生活をするって、本当にたいへんだなあ」とか、自然に先輩たちから、教えてもらってきました。人生の見通しとでも言うものが示され、教えてもらってきました。

今は、もういい年になってきましたので、「私に倣う者となりなさい!(コリント人への手紙第一4章16節)」と言えるような人間像が出来上がっていなければいけない年になってしまいましたが・・・。

教えてもらわなければ・・・と思っていることは何でしょうか?それが見つかるとよいですね!

 

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無視されて・・・悲しんでいる方へ

人生はいろんなことがありますね。

ここ最近、いろんなことがありすぎて、すっかりご無沙汰してしまいました。

決まった日に記事を書くことが出来ない・・・と言うのも自己管理が出来ていない、私の特徴をよくあらわしているでしょう!

無視される悲しみ

最近私の身近なところで、悲しみに沈んでいる人がいます。お若い方ですが、親しかった友人から見向きもされなくなった、ということで落ち込んでいます。

こういうことは・・・よくある?のではないでしょうか。

私も、幾度となく同じような体験をしてきました。未だに癒えない傷跡のように無数の痕が残っているといってもよいかもしれません。

今日も職場で、休憩時間に雑談をしていましたら、中学生の息子さんが最近スマホを買った、と言う話から始まりまして、こんな話しになりました。

ラインにはまっているようなのだけれど、グループラインで話しをしていて、「既読」になっているのに、誰からもレスポンスがない!と気にしている。それで、四六時中スマホを手にとっている、と。

困ったものだ・・・と。

しかし、これは中学生の息子さんに限ったことではなく、同じことが、全世代で起こるのではないでしょうか。

息子の姿を見てそう話している母親も、もし、同じ状況に置かれたら、きっと自分の投稿がどうなったか、反応がどうでたか・・・ある程度は気にすることでしょう。

私が参加している、説教者ばかりのメーリングリストがあるのですが、そこでは様々なディスカッションがなされます。そして、一番空しいのは、投稿しても何の反応もないことだと、誰もが言います。

無視される、自分の存在が軽んじられる・・・これは、誰にとっても不快なことだと思います。まして、信頼していた友人、友達だと思っていた人から無視されるというのは、とっても辛いことだと思います。

無視された?もしかしたら、それは誤解かも

「自分は無視されている!」「自分の存在は軽んじられている!」

そんな風に思うことがあるかもしれません。ですが、早々に決め込んで落ち込んだり、自棄(ヤケ)になったりすることがあるかもしれません。

けれども、ちょっと冷静に立ち止まって考えてみるのも大事ですよ。

ラインの返信がないからと言って、イライラしたり、落ち込んだり、やたらに発信をしたり・・・。余計なところにエネルギーを費やして、かえって周囲に不快な思いをさせて、話しをややこしくしているかもしれません。

相手から返信がないのは、食事中だからかもしれないし、宿題をしているのかもしれないし、体調を崩してもう寝てしまったからかもしれません。決して、あなたを無視しているのではない、別な事情があるだけのことかもしれません。

ですから、「自分は無視されている」と早々に決め込まずに、まずは立ち止まって、冷静に受け止めなおしてみる余裕を持つことをお勧めします。

それでも、やっぱり・・・だめな場合

話しかけ、対話を試み、色んな努力はしたけれど、やっぱり、どうもだめらしい・・・と言うこともあるでしょう。

ええ!ありますとも。無視されること、ありますよ。

でも、落ち込まないで下さい。その人から相手にされないことは、そんなに悪いことですか? 一人でいることは悪いことですか?

そんなことはないですよ、ひとりで黙々と自分の道を突き進めることはすごいことです。休み時間に、友達と群れずとも、ひとりで堂々と時間を過ごすことができるということも、素晴らしいことです。

ディートリッヒ・ボンヘッファーという神学者がおりました。1945年にナチに絞首刑を言い渡されて死刑になっています。大変優れた神学者であり,信仰者でありました。

彼が書いた「共に生きる生活」という本の中に、こういう文章があります。

「神よ、人はシオンにて,沈黙してあなたをほめたたえるであろう」(詩篇65編2節)

多くの人は、一人でいることを恐れて、交わりを求める。彼らは、もはや独りでいることに耐えられなくて、その焦燥感が彼らを人々の中へと駆り立てるのである。自分ひとりでいることの出来ないキリスト者や、自分自身で気まずい経験をしたキリスト者もまた、他の人たちとも交わりの中で、助けを与えられたいと願うのである。たいていの場合、彼らは幻想を打ち砕かれ、そこで本当な自分自身の責任であるのに、非難の矛先は交わりへと向けられるのである。・・・ひとりでいることの出来ない者は、交わりに入ることに用心しなさい。・・・交わりの中にいない者は、ひとりでいることに用心しなさい。あなたは教会の中へと召されたのである。

(D.ボンヘッファー著、森野善右衛門訳、『共に生きる生活』、新教出版社、70-71頁)

われわれは、どちらかと言うと、ひとりでいることが苦手な傾向にあるのではないでしょうか?だから、絶えずスマホを手に握り締め、ラインで人々の反応を気にします。

しかし、神を礼拝する時には「ひとりきり」です。うるさいおしゃべりは不要です。ただひとり、神の前に立つのです。しかし同時に、礼拝は、大勢の仲間と共に集まって行います。ひとりではありません。そして、共に生きるのです。

このバランス感覚がとても大切です。ひとりでいること、それは、けっしてわるくないです。