なぜ、牧師になったのですか?

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2年前に韓国に行った時のこと。

宿泊施設から、ソウル市内にある教会へ移動する途中、BBAなる私を含む女子4名が車一台に乗って移動することになりました。

運転してくれたのは、韓国の教会の日本語礼拝部の信徒のかた。娘さんは日本に留学していて、ご主人は日本と韓国で活躍するビジネスマン。

話がちょっとわき道にされますが、日本語礼拝部というのは、基本的に韓国人の信徒の集まりなのです。

韓国にいる日本人が教会というコミュニティに来て、ストレスフルな海外生活の癒しと憩いの場となるように、また、福音に興味をもって信仰を持つ機会となることを願っている韓国の方々の集まりです。

そのために、日本語の技量を懸命に磨き、また、日本人の救いのために祈り、色々な取り計らいをしてくれている人たちの集まりです。本当に、頭が下がりました。

私は韓国語はまったく出来ないのですが、この旅行で何一つ困ることがありませんでした。彼女たちのご厚意で、たくさんのもてなしを受けました。深い感銘を受けました。

その車中でのこと—

「なんで、牧師さんになったんですか?」

いきなりの質問で、一瞬たじろぎましたが、いやいや、もう逃れられない。

興味津々のまなざしが私に注がれている。もうすでに耳がダンボになっている。

韓国の日本語礼拝部の姉妹はとても陽気で、明るい。心がオープンなのだ。

私も、キューっとなりがちな心が、自然に開いて、初対面であるにも関わらず、思いっきり、自分のことを包み隠さず、話してしまいました。

車中、約2時間。あっという間。大いに盛り上がった、喜びに満ちた女子会でした!

遅刻して、会場に到着。その後は厳しいディベートが私を待っていたのですが、もう、その厳しさは、私には痛くはありませんでした。車中での会話が、私を喜びでいっぱいにしてくれていたからです。

その喜びは、この問いから始まりました。

なんで、牧師さんになったんですか?

「以前、私は〈神〉というのは、人間が創作したものだと思っていました。でも、神様に出会って、それが、間違っていたとわかったので、それで生き方が変わりました。」

と、答えました。自分の口から出てきた言葉に、自分自身も驚きました。

大体、こういう質問は、どういう事件があって、どんな経過で教会に行くようになって、信仰をもって、あるいは何か神秘的な体験や奇跡を体験して…まるでドラマでも見ているかのような、そういうストーリーが期待されている、のです。

そういう期待を裏切って、私は、最初から核心部分に飛び込んでしまったらしい。そもそも、私はそういう物語を話すのが、どうもへたくそなようで、つい、こういってしまったのかもしれないが。

でもまあ、これは、本当に一番大事なこと。

自分が発した言葉に自分自身も衝撃を受けたし、今もその余韻は続いている。

なんで、牧師になったのか? 何のためにお前は今生きているのか—という問いは、自分自身に対する強烈な問いかけとして、常に有効です。

もちろん、毎日はそんなことを考えて生活しているわけではありません。ただ、折あるごとに、思い出し、この問いに答えようとするとき、生きる姿勢がしゃきっとするのは、事実です。

答えの後半にあるように、生き方に関わることなのですね。

信仰を持つ前は、理屈っぽく(今でもそうかも…読者のみなさまごめんなさい)、かつ懐疑的(疑いの塊)で、「神さまなんかいるわけないやん、神っていうのはアホな人間が頭の中でこしらえたものに決まってるでしょ?」って信じていました。

これもまた、無神論という信仰に過ぎませんが…ね。

まあ、色々と惨めな体験をするうちに、ホントに生きていくのが嫌になりました。真剣に自殺を考えました。

自殺を考え始めると、「生きる」という事に替わって、今度は「死ぬ」て言うことについての考察が始まります。で、これがもっと分からないことだらけで、恐ろしいことだという事が見えてきました。

死が全生命活動の停止であるということはわかるんだけど、その後、どうなる?

もしかして、魂とかいうやつだけ残って、このままずっと苦しい思いだけ残ったら、どうする?死んだら絶対、生き返らないことは知っているし、やり直しはできない…って思うと、「死ぬ」ということは、「生きる」より恐ろしいことでした。

じゃあ、生きるって何?

本を読み漁りました。

本との出会いっていうのは、人生における大事な要素だと今も思っています。何を読むかで、ずいぶん影響されます。

だから、このブログのタイトルも「人生で悩んだ時に読む言葉」

言葉なんです、大切なのは。

そして、本は自分で選んでいるようでありながら、実は、自分はこの本の中に何が書かれているかは分からないのだから、正確には選んだとは言い難いような気がする。

まさに、出会う!のです。向こうからやってきて、自分はたまたま手にしてそれを、「選んだ」と思っている。

私にとって、一条の光となったのは、今道友信著「愛について」という小さな新書でした。

私は当時、浪人生で、舞踊教育学とか、美学という聞きなれない奇妙な学問をしていました。(科学がいよいよ重視される現代では、なおさらそうでしょう!)

今道先生には、いまだお会いしたことがないですが、当時から、尊敬していた哲学者のお一人でした。今道先生が、カトリックの信者であることは、結構、後になってから知りました。

まあ、その本を通して語りかけられたのは、こういう事でした。今も、この本を所有しているので、書き抜いてみようと思います。ちょっと、難しいですが、たまにはこういう文章を読むのも悪くない、と思うんですよ。ぜひ、一緒に味わってみてください。

人間は何らかの意味で、自己の存在を他者に負う。ということは、自己自身が真の意味で、自律的存在ではないという事実である。次に人間はすべて死ぬという事実である。このことは、人間が人間である以上、平等に絶対的存在ではないということの証しである。三番目に、それ故人間は、自分だけでは完成できない、したがって、相互に愛し合うことが必要な存在であるという、この三点において人間は真の意味で平等なのである。

中略 愛は存在の定立なのであり、存在の維持なのである。とするならば、我々が存在し、その存在が維持されて言うという事が何者かの愛によると考える…

この何物かを神とするならば、次のように考えられる。神以外に何も存在しなかった創造の始まりのころ、神は神である以上、愛に溢れ満ちていた。溢れ満ちる愛の所有者である神は、自己の愛を何者かに与えようとして、いわば、周囲を見渡すと、そこには自己以外の何物もいなかった、とするならば、神は自己の溢れ満ちる愛を注ぎ入れる器を、すなわち自己愛の対象としての存在を、造らなければならなかった。もし、仮にこのように考えることができるとするならば、われわれは神の愛を受け入れる器として創られたと見なければならない。『愛について』講談社現代新書、1972年初版

 

よ・う・す・る・に、(ってあんまり言っちゃいけないのだが)

私は一人では生きていけない。私は神の愛を受ける器として創られ、この世に生まれてきた。

どん底生活をしても、どんなに疎外されたような状態であろうと、腐ったような精神状態でも、あふれる愛の塊である神は、私を愛してくださる!なぜなら、今、私は存在しているから。

ということです。

このことが、惨めさを味わっていた暗い私の心に、光のように差し込んできました。

そして、自分が生きている限り神の愛が注がれている、と信じるようになると、明らかに自信が持てるようになりました。

「神は人間が作ったものではなく、神が私を創られたのか…それも愛を受ける存在として。」

私にとってはコペルニクス的転換でした。

そして、牧師になりました。

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