この前書いたブログ あたしの仕事ある?—通販vs実店舗 の最後に、
次回予告「現場礼拝からWeb礼拝へ移行した教会はどうなる?」って書いたら、
友人の牧師から、次が気になる!ってコメントが、速攻、来た。
わぉ。読んでくれたんだ、うれしい…という思いと同時に、
考えがうまく整理できなくて、頭がいっぱいになっている自分に苛立ちを覚えたのでした。
教会のことは、本当は最優先してすべき身でありながら、なかなか考えがまとまらず、言いたいことも、はっきり言えなくなるんだわ、これが…
それっていうのは、牧師さんたちはみんな頭いいから、ああ言えば、必ずこう言うだろっ…て言い返されるから、どうしても考えすぎてしまう。
いくらそれが当たり前のことだとわかっていても、やっぱり、ちょっとこわいんだ。
でも、この際だから、言っちゃおう!
Web礼拝なんて、礼拝じゃないんだから、現場、現場!現場!!が大事よ。
お客さん戻ってこなかったら、つぶれるのよ。
だから、同じように信徒が戻ってこない教会はなくなるのよ!!!
・・・
私がいる鳴尾教会はもともと小さいホントにつぶれそうな教会だから、コロナショックは、そんなにショックじゃなかったんです。
小さいことに本当に感謝して、ほぼ平常通りの礼拝をし続けてきました。
でも、イースター以降、さすがに、働く世代を中心に、礼拝堂に足を運ぶのを控える人がほとんどになりました。
私は、と言えば…むしろ、ああ、これで教会に人が来なくなっても、私のせいじゃないって、言い訳できて助かったわ…ってホンマにずるいことを考えている牧師なのでした。
(告解に行け!)
でも、牧師の皆さん、心配してませんか?
献金持ってきてくれる信徒がいなかったら、自分の生活が成り立たない、どうしようって。だから、必死に何とかしないと―って。
でもこれ、完全に動機かずれてますよね。それから、
「Web礼拝は、献身のしるしである献金がないから、礼拝って言えない…」なんて、もっともらしく、めっちゃ遠回しな発言があったりするけど、もし、それだけならPay Palさんにお願いして、クレジット決済で献金できるように、サイトにURL貼ったらそれで完了ですよ。
でも、それでWeb礼拝はホントの礼拝になりましたか?
そういう問題じゃない、と思います。
今まで私が書いた拙文を読んでくださった方は、お客さんとお店の関係が良くわかっていると思います。店舗スタッフがお客様のためにすべき良きサービスが何かということも察してくれていると思うのです。
大部分の牧師は絶対に、顧客と信徒、店舗と教会をアナロジーにして考えるのを認めないと思うけど、私は類比できるところはいくつもあると思います。
お客はお店で、生活必需品を購入するのと同じように、
信徒は教会で、神との和解という、人間として生きるのに不可欠な恵みを頂く。そして全生活にわたる感謝という対価を、献金というひとつの形で教会に差し出す。
お客様が必要としているものや状況を想像して(これは愛!)、それを提供してくれる、そういう店舗は、コロナ後の新しい世界でも活躍できる。いや、そういうお店が、新しい世界を創って行くと信じたい。
信徒の置かれている状況は、言うまでもない、教会堂に足を運ぶことができない。だから、こちらから、礼拝の助けとなるものを届けるのは、当然のサービス(奉仕とも訳せる)。
その一つがYou tubeの配信だったり、説教原稿のメール配信だったり、週報のお届だったり、手紙だったり…
お助けツールは物質的にも霊的にも、色々と必要だと思います。
それでも、まだまだ不足しているし、そもそも、無理なんです。礼拝のデリバリーは。
皆が集まって歌う讃美歌の歌声に慰められたという体験をお持ちの方も多いだでしょう。あれは、配達出来ないです。
自分たちの祈りと賛美として司式者と交互に詩篇を読む「詩篇交読」、
私たちの信仰告白としてみんなで唱和する使徒信条、
私たちの祈りとして捧げる主の祈り・・・
このほかにだって、
礼拝の後に「主の平和」「感謝します」って交わす挨拶や雑談
教会堂入ったときに、古臭いにおいをかぎながらお辞儀をして、礼拝堂のいつもの席に着席するあの所作が私にとっては大切でした、って人だっているかもしれない。
どれもこれも、お届けできやしない。
Web配信したから、オッケーなんてはずがない!
教会堂で日曜日の朝10:15~行われていた一つ一つのことが、私には大切な意味がありました。一つ一つ心を込めて行っていました。また。同じように集まっていた仲間たちが行う礼拝が明らか、私を支えていました。
それができない。みんながいないから…
でもとにかく、今は、じっと嵐が過ぎるの待つしかない。家にいるのが、みんなのためになるのだから仕方ない。
GWは「がまんウィークです」。出かけちゃダメです。
そして、この嵐が過ぎ去ったら、信徒が戻ってくるか来ないかは、今まで行われてきた主の日ごとの礼拝にどれくらい愛着があったかで決まる、でしょう。
それに、もっと過激なことをいえば、全国の教会の礼拝光景を検索して、選ぶ自由もあるのですよ、信徒には。
信徒に審判される日が来ています。―
かと言って、
質のいいコンテンツを作ることに夢中になると、皮肉な結果を招くことになるやもしれない。
「ああ、これでいいじゃない」って、受け手の間で勘違いが起こるかもしれません。
音質もいいし、献金も、ぽちってできるようになっているし、無理して礼拝堂まで足運ばなくても、便利便利。ここで、れいはいできちゃうって。
だから、欠けだらけの配信をしておいた方が、この際、誤解が生じなくていいかもしれません。
「聖なる不満足」こそ、祈りとなるのです。
「私には日曜日ごとの礼拝が必要でした」って、気づかせてあげるまことの不親切は、とても有用だと思います。
…つづく
「散らされて広かれ!ウィルスよりも力強く-だからweb礼拝には価値がある」
ってどう?
補足:Web礼拝という言葉があるのか…わかりませんが、インターネットを使って配信される様々なコンテンツを活用している礼拝の補助のことをさしています。
これに対して現場礼拝っていうのは、今までキリスト教会が伝統的に営んできた日曜日に行われる礼拝のことです。お隣の韓国では上述の礼拝に対して、「現場礼拝」という言葉があるそうです。なので、使ってみました。