ひとりでも寄り添ってくれる人がいたら…

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小学校教諭が小学校教諭にいじめられる、という悲しい事件がありました。

休職しているいじめられてしまった先生が、弁護士を通して手紙を出しました。

私も読みました。涙が流れました。

早く元気になって、子供たちのもとに帰ってきてほしいです。

全文が発表されて、どなたでも読むことができると思いますが、子どもたちへのメッセージの終盤にこんな言葉がありました。

先生はよく「いじめられたら誰かに相談しなさい」と言っていましたね。しかし、その先生が助けを求められずに、最後は体調まで崩してしまいました。「ごめんなさい」今の先生だからこそ、お願いです。つらい時、悲しい時自分一人で抱え込まずに、誰かに相談してください。必ず、誰かが手を差し伸べてくれます。助けてくれます。いつか、みんなの前でまた元気になった姿を必ず見せに行きます。その日を夢見て先生も頑張ります。

大人もこどもも、いっしょなんやなあ…と思いました。

たった一人で問題を抱えて苦しみ続ける、悩み続けるという人は、本当に多いと思います。

なかなか、自分の重荷を人に打ち明けられない。

その人に迷惑をかけるから?

こんなことで悩んでいるのかと思われるのが恥ずかしいから?

そもそも、気楽に打ち明けられる、相談できる人がいないから?

色んな理由が考えられますが、いずれにしても「ひとりで悩み続けた結果、最終的に倒れてしまった」ということが起こっているのです。

ひとりでも寄り添ってくれる人がいたら…

というのは、お世話になっている精神科医の先生の言葉です。

「ひとりでもね…自分のことよくわかってくれる人がいたら、全然違うんだよ。ものすごく楽になるんだよ。その点、君は○○さんが話をよく聞いてくれるみたいだから、いいよ。それでも、どうしてもだめだったら、ここ(診察室)へおいで。」

この言葉がいつまでも私の心に残っています。だから、この言葉を聞いて以来、私はいつもその人のたった一人の助け手に、また聴き手になれたらいいなと思って、生活しています。

この精神科医の言葉は真理だと思います。

例えば…もっとも慰めを必要とする葬儀のことを考えてみましょう。

100人の人が葬儀にやってきて立派なお葬式を上げたとします。ところがその準備と接待が大変で遺族の人たちはくたくたになり、途中でもめ事も発生して、ようやく葬儀を終えました。

というのと、

お身内と身近な人たちのごく少数の人でお葬式を上げました。親しい人やお世話になった人たちから思い出や慰めの言葉を聞くことができ、お別れの時を過ごしました。

というのでは、どちらが遺族の慰めとなるでしょうか。おそらく、後者です。

慰めは数の問題ではないことが分かります。

たった一人であっても、自分の状況と立場に共感してくれる人がいてくれたら、それが慰めとなるのです。

慰めのことを英語で表現するのは、難しいですが、sympathyとか compassion と言う言葉があります。直訳すると、共感するとか、思いやるとか、同情する…となりますが。

これは、とても良い言葉だと思います。

sym=ギリシャ語の「ともに、一緒に」pathy=ギリシャ語のパトス「思い」の合成です。compassionも同様です。

心を一つに(小中学校でよく目にするキャッチフレーズですが)同じ思いになってあげることが、大人にとっても子どもにとっても、とても有用な助けとなる、ということです。

ひとりひとりを大切にするなんて、手間のかかることですが、神さまご自身が、ひとりひとりを大切にしてくださいました。

外向きの顔だけではいけません。何よりも一番身近な家族に対して、助け手であるべきです。

夫のまたは妻の、たったひとりの助け手であるべきです。また、子どもの、助け手でなければなりません。

また、子どもたちも先生や親の助け手になれます。(子どもたちの存在や笑顔が傷ついた先生を支えているように)

ひとりで悩まないように。また、ひとりで悩ませないように。

私たちはお互いに助け手として存在しているはずです!

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