人生はいろんなことがありますね。
ここ最近、いろんなことがありすぎて、すっかりご無沙汰してしまいました。
決まった日に記事を書くことが出来ない・・・と言うのも自己管理が出来ていない、私の特徴をよくあらわしているでしょう!
無視される悲しみ
最近私の身近なところで、悲しみに沈んでいる人がいます。お若い方ですが、親しかった友人から見向きもされなくなった、ということで落ち込んでいます。
こういうことは・・・よくある?のではないでしょうか。
私も、幾度となく同じような体験をしてきました。未だに癒えない傷跡のように無数の痕が残っているといってもよいかもしれません。
今日も職場で、休憩時間に雑談をしていましたら、中学生の息子さんが最近スマホを買った、と言う話から始まりまして、こんな話しになりました。
ラインにはまっているようなのだけれど、グループラインで話しをしていて、「既読」になっているのに、誰からもレスポンスがない!と気にしている。それで、四六時中スマホを手にとっている、と。
困ったものだ・・・と。
しかし、これは中学生の息子さんに限ったことではなく、同じことが、全世代で起こるのではないでしょうか。
息子の姿を見てそう話している母親も、もし、同じ状況に置かれたら、きっと自分の投稿がどうなったか、反応がどうでたか・・・ある程度は気にすることでしょう。
私が参加している、説教者ばかりのメーリングリストがあるのですが、そこでは様々なディスカッションがなされます。そして、一番空しいのは、投稿しても何の反応もないことだと、誰もが言います。
無視される、自分の存在が軽んじられる・・・これは、誰にとっても不快なことだと思います。まして、信頼していた友人、友達だと思っていた人から無視されるというのは、とっても辛いことだと思います。
無視された?もしかしたら、それは誤解かも
「自分は無視されている!」「自分の存在は軽んじられている!」
そんな風に思うことがあるかもしれません。ですが、早々に決め込んで落ち込んだり、自棄(ヤケ)になったりすることがあるかもしれません。
けれども、ちょっと冷静に立ち止まって考えてみるのも大事ですよ。
ラインの返信がないからと言って、イライラしたり、落ち込んだり、やたらに発信をしたり・・・。余計なところにエネルギーを費やして、かえって周囲に不快な思いをさせて、話しをややこしくしているかもしれません。
相手から返信がないのは、食事中だからかもしれないし、宿題をしているのかもしれないし、体調を崩してもう寝てしまったからかもしれません。決して、あなたを無視しているのではない、別な事情があるだけのことかもしれません。
ですから、「自分は無視されている」と早々に決め込まずに、まずは立ち止まって、冷静に受け止めなおしてみる余裕を持つことをお勧めします。
それでも、やっぱり・・・だめな場合
話しかけ、対話を試み、色んな努力はしたけれど、やっぱり、どうもだめらしい・・・と言うこともあるでしょう。
ええ!ありますとも。無視されること、ありますよ。
でも、落ち込まないで下さい。その人から相手にされないことは、そんなに悪いことですか? 一人でいることは悪いことですか?
そんなことはないですよ、ひとりで黙々と自分の道を突き進めることはすごいことです。休み時間に、友達と群れずとも、ひとりで堂々と時間を過ごすことができるということも、素晴らしいことです。
ディートリッヒ・ボンヘッファーという神学者がおりました。1945年にナチに絞首刑を言い渡されて死刑になっています。大変優れた神学者であり,信仰者でありました。
彼が書いた「共に生きる生活」という本の中に、こういう文章があります。
「神よ、人はシオンにて,沈黙してあなたをほめたたえるであろう」(詩篇65編2節)
多くの人は、一人でいることを恐れて、交わりを求める。彼らは、もはや独りでいることに耐えられなくて、その焦燥感が彼らを人々の中へと駆り立てるのである。自分ひとりでいることの出来ないキリスト者や、自分自身で気まずい経験をしたキリスト者もまた、他の人たちとも交わりの中で、助けを与えられたいと願うのである。たいていの場合、彼らは幻想を打ち砕かれ、そこで本当な自分自身の責任であるのに、非難の矛先は交わりへと向けられるのである。・・・ひとりでいることの出来ない者は、交わりに入ることに用心しなさい。・・・交わりの中にいない者は、ひとりでいることに用心しなさい。あなたは教会の中へと召されたのである。
(D.ボンヘッファー著、森野善右衛門訳、『共に生きる生活』、新教出版社、70-71頁)
われわれは、どちらかと言うと、ひとりでいることが苦手な傾向にあるのではないでしょうか?だから、絶えずスマホを手に握り締め、ラインで人々の反応を気にします。
しかし、神を礼拝する時には「ひとりきり」です。うるさいおしゃべりは不要です。ただひとり、神の前に立つのです。しかし同時に、礼拝は、大勢の仲間と共に集まって行います。ひとりではありません。そして、共に生きるのです。
このバランス感覚がとても大切です。ひとりでいること、それは、けっしてわるくないです。