受難週
今日からキリスト教会の暦では、受難週と呼ばれます。
受難週というのは、主イエス・キリストが、地上ですごされた最後の一週間のことで、
十字架にかかられ、墓に葬られた日までのことです。
信仰者は、主イエスの受けられた苦しみに心を向けようと祈りに時間を割き、聖書の言葉を黙想します。
ある人は、断食をします。
美容ダイエットのためにではなくて、祈りに集中するために、食事をしないのです。
断食をすると分かることは、
1.食事をするために、どれだけ多くの時間と労力を裂いているかがわかります。
(買い物に行って、食事を作って、食べて、片付けて)×3回。
主婦・夫の方なら知っているでしょう、食事にかけられているエネルギー。
これを止めると、確かに時間的余裕ができます。
その時間を祈りに充てるというわけです。
2.どれだけ、自分の食欲が強いかが分かります。
食事をやめた途端、食べ物のことばかりが気になります。
いつにもまして、食べ物のことばかり考えてしまいます。
「自分は食いしん坊だなぁ」と思ったりもしますが、食欲は生きていくための自然な欲求です。
断食して、祈りに集中できないくらいなら、普通に食事をして祈った方がよいと思います。
目的は祈ることであって、苦行ではないからです。
さて、そこまでして、キリスト者が見極めたいと思う、キリストの十字架上での苦難、奥義とは何なのでしょうか。
尊ばれない救い主
それは、「誰も信じられないような救い主のありよう」でした。
主イエス・キリストが地上に生まれられる500年も前に、ひとりの預言者が、やがて来られる救い主を指差していいました。
「私たちの聞いたことを、誰が信じたか。
彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、
私たちが慕うような見栄えもない。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で病を知っていた。
人が顔を背けるほどそげ済まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(旧約聖書・イザヤ書53章)
救世主なら、脚光を浴びるはずです。
難病を治したいのちを救った名医、知恵と知識に満ち溢れた国の窮地を救った為政者・・・必ず、みんなから注目されて、賞賛されるはずです。
それなのに、預言者が指差す救い主は、誰も顧みない、誰も信じない、誰も尊ばないような救い主だ、と言うのです。
誰も考え付かなかった、誰も想像さえしなかった救い主―言い換えれば、人知を遥かに超えた救い主であるということです。
それが主イエス・キリストなのです。
主イエスが、誰からも尊ばれなかったということは、心に深く留めるべき言葉です。
預言者さえも言うのです、「私たちも彼を尊ばなかった」と。
今、現在、この国では、イエスを尊ぶ人は多くはありません。
たとえ何かの折に教会に来ることがあったとしても、多くの人がイエスの前を通り過ぎて行きます。
「いいお話を聴いた、でも、宗教はいらない。」
人からは尊ばれないのです。
人々から軽んじられる救い主が成し遂げられたこと
続けて、預言者は続けて語ります。
「彼は、私たちの背きの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼のうち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分勝手な道に向かって行った・・・」
この預言者は、まるで、十字架の足下でその姿を見ているかのようです。
「刺し通された」「砕かれた」というのは、まさしく十字架のことです。
打ち打たれ、いばらの冠をかぶせられ、釘で打ち付けられ、肉体も心も砕かれました。
そして、その傷によって私たちが癒された!のです。
彼を尊ばず、彼を蔑み、通り過ぎてゆく我々に平安を残していくために、主イエスは苦しまれたのです。
これは、まったく理にかなっていない、「そんなこと普通だれもしないし、思いつかない」ことです。
しかし、愛というのは、時に、理屈ではないものです。
神の愛は、人知を遥かに超えたものなのです。
信仰者はこの奥義を見極めたくて、断食までして、祈りに集中するのです。
それも、主イエス・キリストの受けられた苦しみは、私と関係がある、私たちと関係がある、と言っているのです。
私の罪、咎、過ちのゆえに、懲らしめを受けられたと言います。
私の罪とはなんでしょうか?私たちの罪とは何でしょうか?
これもまた、それぞれの祈りと黙想の対象となりますが、まずは、何よりも、救い主である神を尊ばないで、軽んじているということでしょう。
だから、イエスの前を通り過ぎ、私たちは、さまよい歩くのです。
留まることなく、各々が自分の目に良いと思われる道を探し続けることになります。
それぞれが良いと思ってしていることなのですが、この道には終りがないので、なかなか過酷です。
食欲と同じで、尽きることのない欲望に引き回されながら続く、あての無い旅になります。
どうか、むかし、預言者が指差して叫んだ救い主を仰ぎ見て下さい。
そこ通り過ぎず、留まって、身を寄せてみて下さい。
平安が与えられ、渇きと疲労が癒されるはずです。
十字架のかげに泉わきて いかなる罪もきよめつくす
おらせたまえこの身を主よ、十字架の影にとこしえまで
十字架のかげに ゆきし時に 御神の愛を悟りえたり
おらせたまえこの身を主よ 十字架の影にとこしえまで
聖歌総合版 396番-1,2節