先日、「私には友達がいない」というお便りを頂きました。
「そうですね、友達と言うのはいるようでいて、なかなかいないものですね」と答えました。
私は常々、友は神から与えられる宝のようなものだと言っています。
それほど、友達は貴重な存在です。
娘が幼稚園に通っていた時には、いわゆる「ママ友」同士で、お茶を飲みながら、育児の悩みを分かち合ったり、愚痴をこぼしあったりしたこともありました。
共通の環境と共通の話題があるので、「ママ友」は生まれやすいと思います。
でも、環境が変わると、共通の話題もなくなり、それっきり・・・交流がなくなってしまう、ということが多いように思います。
「また会おうね!」と言って、以降,まったく連絡を取り合うことがない・・・
このようなパターンは、何と頻繁に起こることでしょうか?
こんな体験を何度も重ねると、人づきあいに淡白になっていきますよね。
「ずっと、友達でいようね!」とは言われますが、
恐らく、友情はそれ自体を目的として維持することは不可能なものです。
友情はどこで育つのでしょうか?
哲学的に考えると、友情は一種の愛です。
哲学が盛んだった古代ギリシヤ人たちの間では、愛には3つの言葉がありました。
エロス、フィリア、アガペー。
この分類は、的確で人間関係を考えるのに役立ちます。
エロスは、官能的な愛といわれますが、もう少し根本的に考えると、合一の衝動,一緒にいたい、と言うことです。
アガペーは、見返りを求めす、一方的に注ぎ込む愛です。博愛と訳されることもあります。
友だちの愛はフィリアにあたります。
お互いに、行き交う愛情です。愛し、愛される。
それが友愛と言われるものです。
友達が欲しい!というのは、この関係を築きたい、ということですね。
けれども、この温かい関係だけを願っても、そもそもそれは無理というか、形だけになってしまうのです。
友情は、お互いが重要と思える共通の作業をすることによって生まれ、成長するものです。
もし友達がほしいというのなら、奇妙な勧めですが、苦労している人のところへいって、一緒になって苦しんだらいいですよ、ということです。
まあ、こんな馬鹿げたことをする人はいないでしょうが、
しかし、一緒に重荷を背負う、一緒に苦労するというのは、なんと貴重でありがたい体験でしょうか。
友情はそこで生まれ育ちます。
キリストご自身は「友のために命を捨てる!これより大きな愛はない」と言われました。
そして、本当に馬鹿げたことをなさいました。
十字架の上で死なれたのです。私たちのまことの友となるためです。