東日本大震災から6年が経ちました。
いまだ復興の途中、福島原発は問題が山積―
避難生活を続けている方々の生活が今日も支えられるように、希望を抱いて生きることができますように、と祈るばかりです。
あの日以来、「絆」と言うことが声高に叫ばれるようになりました。
家族の絆、地域の絆、日本人としての絆。
しかし、声高に叫ばれる「絆」とは裏腹に、実際は、あまりに「孤独」ではないでしょうか?
つい最近、身近なところで起こったことです。
職場にぱったり来なくなった人がいました。
その職場では、無断欠勤したり、何の予告もなく突然職場に来なくなり、いつの間にか辞めてしまうという人がけっこういるそうで、「ああ,あの子もまたか・・・」と言う感じで、受け止められていたそうです。
しかし、何日も連絡がなく、会社としても放っておくわけには行かないので、コンタクトをとろうと試みたそうですが、とうとう連絡がとれなかった。
そして、数日後に届いた知らせは、本当に悲しいものでした。
自宅で、ひとりで、病気で亡くなっていたそうです。29歳の若さでした。
身近なところで、こんなに悲しいことが起こっているなんて―
そして、そのようなことに気付かずに、多くの人が通り過ぎていく淋しい現実に心が凍る思いがしました。
教会でこの話しを聴いて、みんな、ひとかたならず心配しました。
自分は大丈夫だろうか、と。
ひとり暮らしの方や、老‐老で暮らしておられる人が多いのです。
でも、私は即答しました、
「大丈夫ですよ、皆さんそのための教会共同体ですから。○○さんが、もし何の連絡もなく、礼拝に来なかったら、私,即電話しますし、速攻訪問しますから。」
行き過ぎた個人主義の果てに
ひとりで、誰にも気付かれずに息を引き取る―このようなことは、私が子どもの頃はなかったことです。
誰にも気付かれないで、生活するなんてことは、村の生活ではありえないことだったでしょう。
けれども、都会での生活では、誰にも知られず、挨拶もせず、どのグループにも関わりを持たずに、ひとりで生活することが可能です。
このような生活が気楽でよいとされるのが、今の風潮です。
隣りに、どのような人が住んでいるか分からないマンション暮らしの人は、ここ西宮にもたくさんいます。
煩わしい町内会にも顔を出す必要がありません。役も回ってこず、気楽に生活ができ、快適だと言われています。
けれども、そのような気楽な生活の代価もいつかは支払わなければならない時があるのではないでしょうか。
そのひとつが、「孤独」でしょう。孤独死はその最たるものです。
孤独死と言うことが問題になってきたのは、核家族化が進み、いわば、個人主義が著しくなったためです。
年をとっても、家族との同居はなるべく避けるべきこととして考える人が多いです。
年老いた親たちは認知症にならないだろうか…と心配しながら、老夫婦で、またはひとりで暮らしで、子どもに迷惑をかけたくない、と必死に暮らしています。
どうして、共に生きることをやめて、ひとりひとりが、自由であることがこんなにも強調されるのでしょうか。
なぜなのか―私には分かりませんが、この個人主義の傾向は、いよいよ強くなってきていると感じます。
教会=共同体
この点、教会というところはきわめて奇妙なところです。
教会は、共同体(いわゆる村・ゲマインデ)であると言います。
教会は、個人の宗教心を満足させ、処世術を学ぶところではありません。
神の民の一員として生きることが求められるのです。
いまどき、古臭いでしょう!面倒くさいでしょう!!煩わしいでしょう!!!
しかし、たった一人で生きる重荷に苦しみ、悩むと言うことがありませんし、たったひとりで息を引き取るということも、ありません。
まず、共に生きてくださる神がおられます。
そして、信じる仲間もいて、神(=キリスト)の律法を全うしようとして共に生きるからです。
キリスト律法とは、「互いに愛し合いなさい」ということです。
人を愛するというのは、言うのは簡単ですが、実行するのは難義なことです。
人の重荷を負うのも同じことです。
けれども、これは神の定めですから,私たちは,奮闘しながらも前に進むのです!
現代の「ぼっち」病を克服する道を、教会は、今日も模索しています。