今日、教会学校の礼拝で、「目隠しで歩いて、話し手が立つ位置のところに立ちましょう」という課題をやってみました。
スタートからゴールの地点までは約10メートル。
途中、アコーディオンカーテンで仕切られていて、通り口が狭くなったところもあります。
さて、うまくたどり着くことができるでしょうか。
何にもぶつからないで、目的地点にたどり着くことができたという人はいませんでした。
当たり前といえば当たり前のことですが、目標がはっきり分かっているからこそ、すたすたと、そこに歩いていくことができるのです。
ある人は、アコーディオンカーテンのしきりにぶつかってしまって、
「これはいかん!」と方向修正をしようとしましたが、
上手くいかず、いよいよ的外れな方向に向かって歩き出してしまいました。
自分のカンと経験で方向修正をしようと試みますが、目当てが見えないとなかなか上手くいきませんでした。
ある人は、歩き始めて、途中でとっても暗く感じて怖くなった、と言っていました。
目をつぶって目隠しをしているのですから、最初から暗やみに包まれてのスタートです。
それでも、途中で闇が濃くなるような恐怖を感じるというのは、興味深いことです。
めあてが見えないままで、歩くというのは、危く不安を呼び起こすことであるということです。
これは、実際に体験してみるとよく分かることです。
そして、これは実験的に目を瞑って歩くと言うことに限定されない真理だと思います。
私たちの人生そのものに置き換えてもいいと思うのです。
人生のめあて・目的が分からないと、そこを常に見つめていないと、人生はどんどんずれていってしまう、
行くべきところを見定めることができないと、的外れな生き方をしてしまう――
このような人間の習性を、聖書は「罪」とよんでいます。
新約聖書はギリシヤ語で書かれていますが、ギリシヤ語で罪というのは、「的外れ」と言う意味です。
何か、あくどいことをするとか、意地汚いとか、他者に迷惑をかける…そのような意味ではないのです。
私たちの目が、見えいているようで、見えていない。
的外れな生活をしていしまう、それが罪だ。
含蓄のある言葉です。
主イエスは地上におられた時、多くの人々の病苦をいやし、多くの盲人を見えるようにされました。
そして、仰いました。
「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
すると、自分たちはちゃんと見えていると思っている人たちが、主イエスに向かって言いました。
「私たちも盲目なのですか?」
主イエスのお答えは厳しいものでした、「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。だから、あなたがたの罪は残るのです。」
目をあけて、人生の目的がはっきり見えるようにするために、主イエスは私たちのところに光を携えて来た、と言っています。
このご厚意を、強情に拒むことなく、受取りたいと思います。
どうか、目に光を受け、人生の目的をはっきりと知ることができますように。