「お葬式してもらえませんか?」
そんな、依頼を頂くことがあります。
恐らく、このブログを読んでいる人の多くは、自分の葬式の心配をしている人ではなく、
自分の親の葬儀をどうしたらいいか、と考える人たちだと思います。
高齢化社会が進んで、
(これは、多くの人が長生きできる社会になったということなので、ある面、とても幸いなことと言えます。
タイで、インドネシアで、90歳まで生きる、ということは、一般的なことではありません。
とても、稀なことです。
また、ある国では、子供たちの夢は、「大人になること!」だったりします。
そう考えると、長く生きることがゆるされている社会というのは、とってもありがたいだと言えます。
話しを元にもどして…)
日本では、高齢化社会が進んで、定年退職してからの人生が長くなっていますので、介護費用や入院費用などで貯蓄や年金を使い果たしてしまって、もう葬式を挙げるお金はない、と言う人も少なくないと思います。
そういう事情を反映してでしょう、お葬式は質素に、もう家族だけで結構です、という「家族葬」をご希望される方が、近年増えているように思います。
まして、子どもが生まれたら宮参りに行き、正月には初詣、節分には恵方を向いてすしを食べ、盆にはご先祖様を迎えて夏休みを過ごし…結婚式はキリスト教で、そして、葬式はどこかのお寺で…と、これと言った宗旨を持たない家が多い日本です、もうなるべくお金はかけないで!となるのは、必然ではないでしょうか。
しかし、どうも、お寺に払う戒名の代金が高すぎて納得できない、それに、本当にもうお金も残っていない…そんな話しを耳にします。
さて、どうしたものでしょうか?
キリスト教では、お金をたくさん払ったら、故人が成仏して(?)=救われて、天国に入れるというような教えはありません。
ですから、教会で営まれる葬儀の費用というのは、みな実費です。
うちの教会の場合、使用料や人件費、みな役員会で決められています。
たとえ、当教会の教会員でなかったとしても、冒頭のように「葬式してもらえませんか?」という依頼があり、私たちが行う葬儀のしきたりに賛成して頂けるならば、いつも、お引き受けしています。
けれども、
葬儀はお金で買うサービスではありません
もうひとつ加えて言うならば、葬儀はお金で買うサービスではありません。
「高い料金を支払ったのだから、悲しみの中にある我々に仕えるべきだ」というような考えは、どうか、ご遠慮頂きたいと思います。
キリスト教の葬儀は、神に礼拝(=サービス)を捧げつつ営まれまれます。
言い換えれば、サービスすべき対象は神なのです。
葬儀の主人公は、故人でもありません。
故人の業績が並べ立てられるということもありません。
故人にいのちを与え、故人を愛し、共に生きてくださり、多くの恵みを与えて下さった神をほめたたえつつ、故人を偲び、今日与えられている自らのいのちについて思いをめぐらします。
そして、必ず、聖書が朗読されて、説教がなされます。
まさしく、悲しい日、悩んだ日に聴くべき言葉を、葬儀で聴きます。
私も何度も葬儀で、故人を偲びつつ、聖書の言葉を聴いてきました。
また、時には自分自身も語って参りました。
「高い料金を支払ったのだから、悲しみの中にある我々に仕えるべきだ」という思いを遙かに超える力強い慰めが、そこにはあります。
昨年は2回の葬儀がありました。いずれも、家族葬で、お身内の方々だけでの葬儀でした。
手前味噌で、恐縮ですが、
葬儀が終わった後、ご遺族の方が、こういわれました。
「こんなに、いいお話が聴けるのなら、家族だけでなんて言わないで、近所の人にもお友達にも来てもらえばよかった・・・」そう言われ、びっくりしました。
葬儀はお金をかけたからいいとか、お金をかけなかったからいい、というようなものではありません。
愛する人との地上での最後の営みです。
最善のお別れの時が備えられますように、お祈りいたします。
今日のお話はを伺い、心強い限りです。うちの場合どちらが先になるかわかりませんが、残された者は戸惑うだろうと思います。これから先がだいたい数えられるような年になってきているので、夫と話し合っておかなくてはと思います。
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この間、テレビ番組「カンブリア宮殿」で、在宅介護で最期を看取る働きをしている医師を紹介していました。大変興味深いお話でした。
住み慣れた家で、また親しい人たちに囲まれて、最期を迎えたいと思っている方が多いと思いますが、自宅で最期を迎えられる人は、わずか1割に過ぎません。もし、病気になったら、自分がどうしたいか、明確で具体的な考えをもっていないと、流されるように、貴重な家族との最期の時間が過ぎていってしまう・・・と医師の安井さんが話しておられました。
家族との日頃からの会話が大切だなあ、と思いました。
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