将来のことをあれこれ考えて心配する性質ですか?
「今日の夕飯は何にしようかな?」
「明日の予定はどうなっているのかな?」
「私の1年後はどうなっている?はたまた老後は・・・?」
人は、誰でも、今より先のことを考えながら生きています。
ただ、心配の度合いというのは人それぞれにあるかと思います。
それでも、右に行こうか、左に行こうか、いつも決断を迫られながら生きているといえます。
つまり、私たちの目の前には分かれ道が出てくるわけです。
右に行ったらどんな道があるか、左に行ったらどうなるか・・・それは道行く人には隠されているわけですから、不安が募るわけです。
不安を取り除くために占いやお祓いに行きますか?
日本人の約7割は、「自分は信仰をもっていない」と言うそうですが、
自分の将来について、居たたまれないほどの不安に苛まれると、
神社のおみくじを引きに行ったり、占い師を訪ねたり、お祓いに行ったりすることはよくあるようです。
不安というのは、宗教的行動へと駆り立てるものです。
ですから、知らず知らずのうちに、宗教的行動をとりながらも、「自分は無宗教だ」と思っている人が、多いのではないかと思います。
ところが、
キリスト教会の信仰では、占いは厳禁です。
旧約聖書によれば、占いをする人は厳罰に処せられ、占い師はイスラエルの民から追放せよ、と厳しく命じられています。書くのも、憚られるほどの厳しいもので…
「教会にだって、朝のTVでやっている、今日の運勢みたいなのを見てくる人もいるし、そんなに、厳しく言わなくっても・・・」と思うくらいの断罪ぶりです。
なぜ、占い師や霊媒師は、キリスト教信仰には不要なのでしょうか?
それは、宗教的な節操からでしょう。
つまり、浮気はしない。
キリスト教信仰というのは、ひとすじなところがあります。
占いを禁じるのは、世界を創られ、あなたを創られ、あなたを救われる神だけを信じなさい、というメッセージそのものです。
そして、「浮気はするな、私を信じて、私を愛せよ」とお命じになる神は、こう言われます。
「私があなたがたのために立てている計画をよく知っている。それは、わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
力強い約束です。この聖書の言葉に力づけられて、信仰をもった人も多いです。
でも、信仰をもった人は、ちょいと先の将来が明かされて、不安が消えた…というわけではないのです。
将来に起こるべきことは、相変わらず伏せられたままでしたが、
未来への思い煩いからは解放されて、今日を力いっぱい生きることにシフトしたのです。
この神に信頼して生きるなら、一寸先は闇ではなく、光である!ということが確信できたからです。
将来が見えない、というのはよいことです。
それは無限の可能性が広がっている、というしるしです。
そして、その将来は、神がよく知っていて下さいます。
神さまの平安があなたと共にありますように。